車いすラグビー。またの名を殺人球技。
どうして、こんな物騒な愛称がついているのか、一度試合を見ればよくわかる。競技用の車いすが何度もひっくり返るくらい激しくぶつかり合う。そんな車いすラグビーに魅せられ、20年にも渡りその競技を支えることになった一人の女性がいる。
それが今回ご紹介する渡辺紗代子さん。
なぜ、そんなに車いすラグビーに彼女は夢中になったのか?
「だって・・・めっちゃおもしろくないですか?純粋にスポーツとして」
そう明るく話す彼女の熱量に終始、あなたも圧倒されるはず。前半では、車いすラグビーとの衝撃の出会いから、日本唯一のチーム帯同の国際レフェリーとなった彼女の道のりを辿る。
「私も試合見に行ってみようかな」読み終わったアナタは、車いすラグビーの魅力にもうハマっているかもしれません。
(取材:構成=スポジョバ編集部 荻野仁美)
ーーもともと理学療法士だった渡辺さんが、車いすラグビーに出会ったきっかけから教えてください。
渡辺:出会いは理学療法士の専門学校生だった時ですから10代の時ですね。当時の担任の先生が障がい者スポーツに精通している方で、ある日、突然クラス40人くらい生徒がいる中で、5人ピックアップして「車いすツインバスケットの練習を手伝って来なさい」って。よくわからないまま練習を手伝いに行ったのが障がい者スポーツと関わった最初です(笑)
ーーその5人になぜ渡辺さんが選ばれたのかも、その先生に聞いてみたいですね!
渡辺:結局、未だに聞けてないですけど、その5人全員がスタッフ登録しているので、先生には何か見えていたのかもしれないですね。ちなみにその先生は去年、東京2020の日本選手団のトレーナーを務めていました!で、車いすツインバスケットのスタッフとして活動するうちに、選手に「ラグビーも始めたいから一緒にやってくれない?」って言われて付いて行ったのが、車いすラグビーとの出会いなんですが・・・衝撃でしたね〜!!
ーーやはり、それはあの激しさですか?
渡辺:はい。もう・・・「一体何をしているの?!」って感じでした(笑)学生とはいえ医療をかじっていて頸椎損傷などの知識がある身としては、車いすの人って守ってあげないといけない対象、治療の対象者っていう意識だったので、あんなに激しくぶつかり合っているのを見て「何してんの?!これで障がいもっと重くなるんじゃないですか?!」って心配になるくらい。
ーーその衝撃の出会いから、その後20年に渡って関わっていく事になりますが、どんな所にハマっていったのでしょうか?
渡辺:これは後から知ったことなんですけど、車いすラグビーって実はパラスポーツの中で1、2位を争う程、重度障がい者がやっているスポーツなんですよ。意外ですよね?それだけ重度障がい者がやっているスポーツなのに、より重度な人を守るルールがないんです。重度障がい者に対して、やってはいけないルールとかないんです。皆が全く同じルールの中で、後はご自由にどうぞっていうその感じが、すごくスポーツだなって思って。『障がい者スポーツとして面白い』ではなくて、『スポーツとしてすごく面白い』。障がい者が障がい者じゃなく見えるというか…。もともとスポーツ大好き人間なので、そのスポーツを通してチームメイトとひとつになって、一個一個、勝ちを取りに行くその作業にすっかり夢中になっていきました。
ーー専門学校を卒業した後も、車いすラグビーに関わり続けていたという事ですが、理学療法士として…という事ですか?
渡辺:いえ、理学療法士として県内の病院に勤務する傍ら、車いすラグビーのチームスタッフを続けていました。チームスタッフとしては、マネージャーの様なポジションですね。スタッフも沢山いるわけじゃないので、何でも屋さんって感じかな(笑)
ーーその「何でも屋さん」の流れで、レフェリーの資格をとろうと思ったのですか?
渡辺:実は私、レフェリーの資格をとろうと思った事は一度もなくて(笑)レフェリーの勉強をしようと思ったきっかけが、チーム練習でゲームをする時。車いすラグビーには10秒に1回ドリブルかパスしなきゃいけないっていうルールと、コートにボールが入ってから12秒以内にフロントコートまでボールを運ばなきゃいけないっていうルールがあるんです。で、選手たちから「その10秒と12秒だけ数えてくれる?」って頼まれてコートに立ったのが最初です。それだけでいいって言ったのに、試合中エキサイトした選手たちが「ちょっとレフェリー‼」ってめっちゃ文句言ってきたんです(笑)まずはそれを言われるのが嫌でルールの勉強を始めました。そのうちに、あれ?これルールに詳しい人がチームにいたら、めちゃめちゃ強いんじゃない?って思い始めて、遂には「そんなにルールに詳しいならレフェリーになってくれない?」ってお話も頂いていたんですが、ずっと断っていました(笑)
ーーせっかくルールの勉強をしたなら活かしたくなりそうですけど、当初はレフェリーに抵抗があったのですか?
渡辺:一番の理由は、レフェリーだと大会中チームを離れないといけないからです。自分のチームの試合を吹く事はないので、試合中はチームと一緒にいられますけど、試合以外の時間も選手のケアだったり、次の試合に向けてしている準備、その時間もチームから抜けたくないなって思ってました。でも、そのうちに帯同レフェリーっていうシステムができて、各チーム必ず1名、レフェリーを出さなきゃいけないって事になって、当時チーム内で一番レフェリーできるのが私で「じゃあ、さよちゃん」って言われて、しゃーなしでなりました(笑)それでも、選手がどれだけ努力してコートに立っているのかっていうのは近くで見てきているので、ひとつの試合を裁く責任は強く感じていました。資格なしでも帯同レフェリーは続けられるのですが、独学だと知識も技術も限界がある。きちんと先輩方から指導してもらえる技術委員に所属するために、レフェリーの資格をとりました。
ーー「チームの為に」の一心で、あれよ、あれよとここまで国内のレフェリー取得まできましたけど、渡辺さんは国際レフェリーの資格も持っているんですよね?これもまた取得大変そうですが・・・
渡辺:国際レフェリーになるには、まず国際車いすラグビー連盟に推薦してもらわなきゃいけないので、そこまでの実力がないといけない。そこまでで5年はかかってますね。で、国際連盟から連絡がきて、審査してもらう海外の試合に1人で行くんですけど、私のスケジュールと国際レフェリーのスケジュールが合わないとダメ。だから審査してもらう試合に呼ばれるのに更に2年。そこで4つの試験、筆記試験と実技試験とフィットネステスト、面談をクリアすれば晴れて国際レフェリーになれます。
ーーおぉ~!!試験を受けられるようになるだけでも長い道のりですね・・・。その4つの中でも、一番何が大変でした?
渡辺:ダントツでフィットネステスト!シャトルランのめっちゃキツイ版みたいなのなんですけど、私が受けた年から必須になって。筆記だけクリアすればなんとかなるよって先輩に言われて必死で英語の勉強していったら、フィットネスで落ちたんです。その後、めっちゃトレーニング頑張って2回目の挑戦で、無事、国際レフェリーに合格しました。お世話になった先輩方や、応援してくれた選手の皆さんに目に見える形で恩返しできたのかなって嬉しかったですね。
ーーそんな渡辺さんが、心に残っている一戦を教えてください。
渡辺:2019年の日本選手権の決勝ですね。その大会は東京パラに向けてのTO=テーブルオフィシャル(試合中、時間、得点、ファウルの数などを管理する係)の選考会も兼ねていました。私はその選考会の対象だったので、チーム帯同レフェリーではなく技術委員のレフェリーとして参加していました。そんな中、私の所属チームが決勝に進出したんです!更に私がチーム帯同ではないので、その決勝に私がレフェリーとして配置されたんです。(通常、帯同レフェリーが自チームの試合を担当することはない)
ーーなんとドラマチックな!!
渡辺:レフェリーとして決勝戦を吹くのは、とても名誉なことなんです。当時、3位決定戦は吹かせてもらっていて、そろそろ決勝も任せてもらえそうなタイミングでチームが決勝に勝ち上がってきてくれた。レフェリーとしての初決勝が自分のチームの試合でした。夢が一気に叶った思いでしたね!!
ーー喜びと同時に複雑な色んな思いがこみあげてきそうですけど、試合中はどんな感覚でしたか?
渡辺:始まる前は、すごく緊張しました!私が、決勝吹きたいっていう思いはチームメイトもみんな知っていたので、自分たちの決勝でさよちゃんの夢が叶って嬉しいって喜んでくれましたね。更にみんなも決勝で緊張しているからか、試合始まる前やたら目が合うんですよ(笑)でも当たり前ですけど公平にしなきゃいけないって、すごく意識しました。始まってしまえばワンプレー、ワンプレーに集中するだけなんですけどね。結果としてチームは負けちゃって、みんなすごく泣いている。もらい泣きしそうだけど、レフェリーだから泣けないって思って。いや、ちょっと泣いてたかもな(笑)
ーー渡辺さんがレフェリーをしていて、やり甲斐を感じるのはどんな時でしょうか?
渡辺:私がレフェリーを頑張れる理由ってチームにあって。私がレフェリーとして最前線に立つ事で、所属するチームに有利になる事ってあると思うんです。こういう時、レフェリーってこんな事考えてるよ、こういう風に見えてるよといったレフェリー心情や、このルール変わりそうといったことも国際レフェリーにはいち早く情報が入ってくるので、そのあたりの情報共有を選手にできる。チームのためにっていうのが、私がレフェリーを頑張れる原点ですね。
ーー今後、レフェリーとしてこんなことをやっていきたい!などの具体的な目標はありますか?
渡辺:偉そうに言うと、さっきのチームのためにってことを日本代表レベルでできたらいいなと思っています。私が世界に出て技術や情報を得て、日本の大会や日本代表合宿で使っていくと、比例して日本の技術レベルもより上がるんじゃないかなって。純粋にレフェリーをやっていて楽しいっていうより、自分が頑張る事でチームや競技のためになるかなって思っています。
ーー渡辺さんが車いすラグビーに関わって20年。少しづつ競技のレベルも環境も変わってきていますか?
渡辺:それこそ20年前って、取材がきても新聞ならスポーツ面じゃなくて社会面だったんです。選手はアスリートとして本気で競技に向き合ってて、チームも本気で勝利をとりにいっているのに、世間からの見方は「障がい者が頑張っている」なんですよ。10代の私は悔しくて堪らなかったですね…。私はなにより、この車いすラグビーがスポーツとして大好きなので!でも去年、東京パラが終わって「本当に変わったんだ。理想に近づいている」っていうのは感じました!
ーーその東京パラリンピックについても後編でたっぷり伺いたいのですが、まずは前編の最後に、いいレフェリーの条件って渡辺さんにとってどんな事ですか?
渡辺:難しいなぁ〜…。選手との距離をうまくとれる人かな。レフェリーのイメージで言ったら、感情なんかなく目の前の事象を白か黒かで裁くって事だけど、私はそれだけじゃなくて少しは選手に寄り添う事も大事だと思うんです。そのあたり、東京パラにきていた国際レフェリーの方々はすごく絶妙で!決して選手と馴合っているわけではなく、だからといって選手を突き放すわけではなく選手からも信頼されているんです。
ーー機械でなく人間が裁く以上、人と人との関係性ですから、必ずそこには信頼関係がないと成り立たないですよね。
渡辺:私は今、日本代表の合宿にもお邪魔していて20年来の仲の選手もいるんです。一緒に合宿していれば人間ですから情もわいてくる。でも、国際レフェリーとしてはその情を捨てて、顔見知りを裁かなきゃいけない。入り込み過ぎないようにっていうのは東京パラの前もすごく意識した部分ですね。そんな中で独特の信頼関係を築いていかなきゃいけない。日本人選手ともそうだし、国際大会に行った時に、名前も知らない選手とレフェリー同士、そこで初めて結ばれる信頼関係。両方、大事にしていきたいなと思っています。
ーー次回、後編では東京2020でテーブルオフィシャル=TO(試合中、時間、得点、ファウルの数などを管理する係)を務めた渡辺さんが最高峰の大会で感じたこととは?感動の日本の銅メダル獲得の裏側にも迫ります!!
【PROFILE】
渡辺 紗代子(わたなべ さよこ)
沖縄県沖縄市出身。元理学療法士。車いすラグビーチーム『FREEDOM』(高知県)スタッフ。専門学校時代に恩師の導きで、車いすラグビーに出会い、以後20年、競技を支える事になる。チームメイトにレフェリーを頼まれた事をきっかけに、車いすラグビーのルールを本格的に勉強し始め、レフェリー資格を取得する。また日本で初めてチームに所属しながら国際レフェリー資格を取得。
現在はカフェ店員として働く傍ら、様々な大会でレフェリーを務め日本代表合宿にも参加する。東京2020パラリンピックでは、テーブルオフィシャル=TO(試合中、時間、得点、ファウルの数などを管理する係)を務めた。コロナ前は月一でディズニーに行くほどのDヲタ(ディズニーオタク)。アトラクションの時間帯別の混雑具合を把握しているため「私とディズニー行ったら15分以上、並ばせませんよ♪」
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