遠回りしたからこそ気づいた、元Jリーガーが語る夢の作り方〜どうしてもプロになりたくて〜【前編】

NUMBER39/エストレーラFC 菅野将太

遠回りしたからこそ気づいた、元Jリーガーが語る夢の作り方〜どうしてもプロになりたくて〜【前編】

NUMBER39/エストレーラFC 菅野将太

「子どもたちには、夢を諦めないこと、続けること、成長し続けることを大切にしてほしい」

元Jリーガーであり、現在はサッカーコーチをされている菅野将太さんは、取材中に何度もこの言葉を口にしていました。お話を伺っていくと、何度も挫折を経験したけれど、夢のJの舞台に立てたという素晴らしいストーリーが。ただ、その道のりは決して簡単なものではなく……

さてあなたは、どのくらい本気で夢を追いかけていますか?

「今が最終地点じゃなくてもいい。その目標、遠回りしてでも掴んでほしい。その先に見えるものがある」と菅野さんは語ります。前編では「僕は非常に遠回りをしてJリーグの舞台に立てたから」と話す彼の、選手引退までのお話をご紹介。そこには、人として成長するためにも知っておいてほしい、大事な変化がありました。

(取材:構成=スポジョバ編集部 小林亘)

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もともとは父の影響でサッカーを始めた、普通のサッカー少年だった

__菅野さんは、お父様の影響でサッカーを始められたと伺ったんですが、まずはその辺りからお話聞いてもいいですか?

菅野:そうです!当時Jリーグはなかったんですけど、日本リーグの今のジェフ千葉の前身に当たる古河電工というチームで、父はサッカー選手をやっていたんですよ。もう、素晴らしい選手で、憧れの存在で。自然と私もサッカーを始めたんです。当時、人見知りだった私でしたけど、サッカーを通して仲間と打ち解けられたり、一緒に喜べたり…と友達が増えて、どんどんサッカーが好きになっていったんです。ただ、僕自身プロ選手を目指していたものの全然上手くなくて。中1で紫光クラブ(京都パープルサンガの前身)に入ったんですが、みんなめちゃめちゃ上手くて「自分プロにはなれない、無理だ(笑)」って思ったんですよ(笑)。

__元Jリーガーさんなので、学生時代からスターダムを駆け上がっていたのかと思いきや、そんなこともなくいわゆる"普通"のサッカー少年だったんですね!

菅野:いや、本当にそうです(笑)。レベルの差に驚いたんですよ(笑)。ただ、スクールの最後10分くらいで行うリフティングの練習が楽しくて、それだけのために行ってた感じで(笑)。でも面白いもので、だんだん自分も高いレベルに慣れてきて成長していった矢先、ある日突然「Aチーム入れ」って監督に言ってもらえて。そこからはトントン拍子で府選抜に入ったりして。そこで「何かキッカケがあったり、好きなことをやり続けているだけでも、一気に成長できるんだな」とか「リフティングでも続けていて本当によかったな」とか、中1ながら思ったのを覚えていますね。

__1つでも得意なことや、ある一部分だけでも強みに伸ばしていくことが大切なんだって、菅野さんのお話聞いてて思いました。でも、それであれば全然"普通"じゃないですよ(笑)。中1で府選抜なんて(笑)。

菅野:そこで、そのまま成長しきれなかったんです。というのも中1の終わり頃、右足に骨腫瘍が見つかったんですよね。幸いにも良性だったので切断まではいかなかったんですが、いずれにしても復帰まで1年半近くかかったんです。復帰したのは中3の頭くらいでしたかね。だから一番サッカーが上手くなると言われている中2とか中3を、ほぼプレイできずに終わってしまって。ちょうどその頃、紫光クラブも「パープルサンガ」って名前に変わって強くなっていったタイミングでしたから、みんなが全国大会出てるときに自分は車椅子で帯同した思い出があります。

__それは悔しい……。でも良性で、サッカーを続けられることになって、本当に良かった……。そのときの経験があったからこそ、高校ではより頑張ろうって思えたんじゃないですか?

菅野:仰る通り。ですが、やっぱり中2~中3の伸び盛りの時期にサッカーできなかった、ブランクもある状態からの高校サッカーはスタートだったんです。だからまた紫光クラブに入ったときのように、周りのレベルに圧倒されて、ついていくのが精いっぱいで。高校も一応京都パープルサンガユースだったんですが、高3の最後の大会で初めてレギュラーになれたってくらいですね。Jユースカップで優勝できて、そこでやっと報われたというか。でも、振り返ると中・高の6年ある中でまともにプレイできたのって、中1の半年と高3の半年くらいの合計1年くらいでした(笑)。だからこそ、進学する度にサッカーを諦められない気持ちになっていったんだと思いますが。





自分に甘えた時期もあった。でも最終的に目指したかったプロは、やっぱり諦められなかった

__高3の最後の大会でレギュラーを勝ち取れたってお話は、非常に感慨深いですね…!とはいえ「ケガがなければ…」と悔やんだからこそ、菅野さんの中で燃え尽きられなかったんですね。このままじゃ終われないぞって。

菅野:そうなんです。ただ、ユースからトップチームに上がれなかったので「さすがにプロはもう無理だな」って思ったんです。親にも「サッカー辞めるね。先生になりたいから日体大に行く」って伝えて。やっぱり、ケガをした最中も周りが支えてくれたり、コーチが助けてくれたりしたので、指導する仕事に魅力を感じていたんですよ。それで、高3で実績も出したので推薦で日体大が決まりまして。……でも、運命のいたずらと言いますか、高3の冬、1月くらいのタイミングで流経大の監督から「特待生でサッカー部に来てくれ」って連絡いただけて。めちゃめちゃ迷いました。先生になろうって思ってましたし、もう通用しないと思ってたので。でも、監督がそう声かけてくれたことが嬉しくて、諦めていた夢をもう一度目指そうって思えたと言いますか。やっぱりなんだかんだ燃え尽きてなかった自分がいて、最終的には流経大に進学する選択を取ったんですよ。関東2部上がったばっかりで、勢いもあるし練習も行って雰囲気の良さも感じていましたから。

__まさに「お前はまだサッカーやれ」と神様から言われているような感じですね(笑)。でもやっぱり、骨腫瘍になっても全然成長できなくても、高いレベルに身を置いてサッカーを続けてきたからこそ、チャンスが舞い降りたような気もします。

菅野:それは私自身も感じていて、やっぱり続けていないとラッキーなことって起きないと思うんです。僕も何度も諦めようと思いましたけれど、踏みとどまって続けてきたから声をかけていただけたのかなって。まぁでも、僕も中途半端だったんですよ。大学進学後、1年生で開幕スタメンを勝ち取ったものの、そのあとは大学生あるあるで結構遊んでしまって。中・高はずっとサッカーとリハビリの生活だったので、本当に全く遊んでなかったから、その反動で。そうしたら当然ですが、だんだんメンバーから外れたり……。最終的に4年生のときはCチームで終わりました(笑)。

__え、ちょっと待ってください。遊んじゃったんですか?(笑)。お言葉ですが、よくプロに……。

菅野:そうなんですよ(笑)。でも、Cチームで最後の大会に出たとき、対戦相手は"学生時代の最後の思い出作り"みたいな雰囲気だったんです。「なんで自分はここにいるんだ。なんであんな生活を送ってしまったんだ」とすごく後悔して。最後の大会が悔しくて「やっぱり自分はプロになりたい。いや、絶対なるんだ」って決断したんです。だから大学の監督にも「就職しないでサッカーのプロになります」って伝えたんですよ。当然、めっちゃくちゃ怒られたんですけど(笑)。

__私はバスケが凄く好きな人間なんですけど、菅野さんスラムダンクの三井寿みたいですね(笑)。諦めの悪い男!

菅野:ははは(笑)。自分でも変だなって思うんです。あれだけプロになるって決めて大学入ったのになって。気づくのが遅かったんですよ。だから4年生の最後の大会が終わってからは、1人でグラウンド借りてずっと練習してました。当然プロから声はかからず、トライアウトも受けたんですけど全部ダメで。それでも今回ばかりは本気だったので、働きながらプロを目指すっていう選択を取ったんです。当時J3がなかったので珍しいタイプだったんですけれど、最終的には知り合いづてに『アローズ北陸』ていう富山県のチームを紹介してもらって、そこに入団しました。でも、これも「大学は遊んじゃったけど、やっぱり俺プロになりたいって本気で思ってるから、募集してるチームあったら教えてほしい」って周りに言ったのがよかった。そういう姿勢を見せたからこそ、こんな自分にもまた神様がチャンスをくれたのかなって思いますね。





異色のキャリアがスタート。富山の漁港で学んだ、人のためにするサッカー

__働きながらプロサッカー選手って、それこそデュアルキャリアだと思うんですが、どんな仕事をされてたんですか?

菅野:富山県は日本海がすぐそこで、お魚がよく捕れるんですよ。だから私も漁港というか、市場で働いてました(笑)。なので当時は[6:00~13:00]で働いて、[15:00~20:00]くらいまで練習をして、[21:00~24:00]くらいまでコンビニでバイトしてって毎日でした。今だったら絶対できませんけど、とにかく必死でした。アローズ北陸からは月数万円しかもらってなかったので、生きることとサッカーすることに精一杯でしたね。

__漁港でバイトって面白いですね!なかなか経験できないでしょうし。なにより働きすぎと言いますか、やっぱり苦労されていたんですね。

菅野:でも、あそこでバイトしてよかったと思ってます。というのも、その時までは自分のためだけにサッカーやってきたんですよ。自分が上手くなりたいとか。勝ちたいとか。でも、漁港の社長さんとか従業員のおばちゃんとか、毎週私の試合を観に来て、応援してくれるんですね。で、次の日になると「昨日勝ててよかったね」「来週も頑張ってね」とか声をかけてくれて。仕事でミスをしてもカバーしてくれたり。そこで初めて「この人達をもっと喜ばせるために、サッカー頑張りたいな」「こういう繋がりをすごく大切にしなきゃいけないんだな」って気づけたんです。だから確かに相当ハードワークだったとは思いますが(笑)でも、辞めたいとは思わなかったんですよね。むしろ楽しくって。

__それは感動的なお話ですね…!学生時代も、もちろんチームメイトや家族が応援してくれてたとは思いますけれど、職場の人や知り合ったばかりの方が応援しに来てくれたりして、より人のためにって気持ちが強くなったわけですね。

菅野:自分が大好きなサッカーをやっているだけなのに、なんでこんなに応援してくれるんだろう。なんでこんなに嬉しい気持ちになるんだろうって。でもふと「指導者になったときは、こういう想いを選手たちにも感じてほしいな」って思えたんですよね。だから客観的に見ると確かに遠回りなんですが、あの期間は私のサッカー人生の中でも、かけがえのない時間でした。経験しなければ、きっとずっと、自分のためだけにサッカーをしていて、指導者になったとしても自分よがりの指導をしていたんじゃないかなって思ったりもしますね。

__まぁエリートのように、プロの世界へストレートインすることが全てではないと思うんです。それこそドラフト外からプロ入りして一流になる人もいますし。……とはいえ、まだJリーガーではないんですよね?となるとプロになっても早い段階で指導者という道を視野に入れていたわけですか?

菅野:そうですね!やっぱり私はそこまで上手いプレイヤーではないと自覚していたので、ずっとは続けられないと思っていました。とはいえプロの道は諦められなくて一生懸命やってた形です。で、Jリーガーになる話ですけど、富山県には私が所属していたアローズともう1つ、YKKAPが母体のチームがあって、両チームとも成績がよかったんです。2位、3位とか。それで当時JFLから4位以内はJリーグに上がれるって基準だったので、「この2チームを合体したらJリーグ行けるのでは?」って話になりまして。それで『カターレ富山』って名前に変えて再スタート。調子よく勝っていって、結果3位で着地。自分が3年目のシーズンで、来季からはJ2に昇格が決まったんですよ。もちろん嬉しかったんですけど「来年から俺がプロ?」「「こんな俺がJリーガー?」って夢見心地と言いますか(笑)。大好きだった市場にも行けなくなっちゃって悲しかったですし、あまりにも信じられなかったんですけど、とにもかくにもJリーガーになれることが決まったんです。その時は25歳でした。





デビューわずか1年で引退!?ついに足を踏み入れたJの舞台は、まるで……。

__てっきり、アローズ北陸からステップアップして他のJクラブに入ったのかと思ったんですけれど、合併&昇格でJに入れるチャンスをしっかり掴んだわけですね。諦めずにやってきた努力が報われた瞬間、感動したんじゃないですか?

菅野:一番感動したのは、30節でようやく試合に出られたとき。父がその前の年まで監督をしていた湘南ベルマーレ戦でした。父が監督をしていたら親子対決だったんですけどね(笑)。でも、父がいたベルマーレ戦でデビューできたというのも、ものすごく感慨深くて。それでピッチに入りますってなった瞬間。大きな歓声、天然芝の感触や匂い……それを感じて、1歩入ったくらいで、小学校から大学までの10何年かがフラッシュバックして。走馬灯のように出てきて、本当にJの舞台に立てたんだって。「お前頑張ったな」って言われてるみたいで。これまでの苦労は、この一瞬で報われるんだなって。

__きっと市場の方々も応援してくれてたでしょうし、ようやく恩返しできたって思いもあったんじゃないですか?それもきっと、自分のためだけにサッカーをしていたら味わえなかった感動だとも思いますよ。……ただ菅野さん、デビューして1年で引退されてますよね?これは一体……??

菅野:当時のJ2ってすごかったんですよ。香川真司選手、乾貴士選手、あとはキング・カズさんとか、結構な面々とマッチアップしたんですよね。その経験も忘れられない。「なんで目の前にカズさんがいるんだ?」とか(笑)。不思議な感覚がずっとありました。だから今思えばダメなことなんですが、僕の目標は「デビュー」だったんですよ。代表入りでもなく。だって走馬灯とかって引退試合とかで起こることじゃないですか(笑)。結局それ以上は行けなかったんですよね。そこからシーズン終了まで10試合くらい、デビューからだいたい4か月くらいですかね、それで引退しました。ほんと、あの期間は夢の国にいたような感覚でした(笑)。

__ゴールできても、なお上を目指そうではなく、やはり高校時代から考えていた指導者のほうにベクトルが向いたわけですね。お話を伺っていると、自分以外の人に影響を与えたいという考えをもらってから、なんとなく次の道へ進む準備できていたのでは?というような気がします。

菅野:「指導者になったら…」っていう頭は、節々にありましたね。感動もそうですが、サッカーを通じて子どもたちの成長も、競技の魅力もなにもかもを伝えられる指導者になりたいなって。だからこそ最初から目標は高めに設定したほうがいいなって思ったんです。自分がもっと上を目指していたら変わったかもしれないからこそ、子どもたちにはそういう夢の作り方から教えたいなって思ったのも、そのタイミングでしたね。

__諦めの悪い男が、ついに現役を退く……。その瞬間の話、最後に聞かせていただけますか?

菅野:26歳のときですかね。指導者になりたいって思ったと同時に、指導者としてJリーグの舞台に戻ってきたいとも思ったんです。だから今回ばかりは、ふん切りが早かったんですよ。何チームかオファーいただけたりもしたんですけど、完全に気持ちはシフトしていて。家族にも早い段階で「プロになるって目標を叶えたから、次の指導者って夢を叶えるね」って伝えられました。とはいえ、カズさんや数々の代表選手とサッカーできた瞬間やあの感覚は二度と得られないと思うんですけれど、自分の人生のハイライトであることは間違いないんです。

▶▶▶次回「Jリーグを経験したからこそ、子どもたちに伝えたいこと」に続く






【PROFILE】

菅野将太|NUMBER39:サッカー指導者

父であり元サッカー選手の菅野将晃氏の影響で、自然とサッカーを始める。父への憧れから「自分も将来はプロサッカー選手になる!」と幼少期に夢見ていたものの、中2の頭、右足に骨腫瘍が発覚。幸い良性だったものの、中学時代はもちろんブランクからの復帰で高校サッカーでも3年まで花開かなかった。プロを諦めて指導者の道へ進もうと決めた矢先、流通経済大学の監督からのスカウトにより、再びプロの道を目指す。しかし大学は甘くなく、最終学年のときにはCチームで不完全燃焼。諦めきれずデュアルキャリアとして富山県のアローズ北陸へ入団。その間、漁港でのアルバイトで人と人とのつながりに感動を覚え、人のために頑張ることの素晴らしさに気づく。入団後アローズは、富山県にあるもう1つのチーム(YKKAP)と合体し、現在の『カターレ富山』が誕生。JFLリーグを見事勝ち抜きJ2へ昇格。当時25歳。念願叶ってJリーガーとしてデビューした。しかしプロになることをゴールにしていたため、デビュー戦で完全燃焼。そこから指導者の道へと進むことになる。


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「子どもたちには、夢を諦めないこと、続けること、成長し続けることを大切にしてほしい」

元Jリーガーであり、現在はサッカーコーチをされている菅野将太さんは、取材中に何度もこの言葉を口にしていました。お話を伺っていくと、何度も挫折を経験したけれど、夢のJの舞台に立てたという素晴らしいストーリーが。ただ、その道のりは決して簡単なものではなく……

さてあなたは、どのくらい本気で夢を追いかけていますか?

「今が最終地点じゃなくてもいい。その目標、遠回りしてでも掴んでほしい。その先に見えるものがある」と菅野さんは語ります。前編では「僕は非常に遠回りをしてJリーグの舞台に立てたから」と話す彼の、選手引退までのお話をご紹介。そこには、人として成長するためにも知っておいてほしい、大事な変化がありました。

(取材:構成=スポジョバ編集部 小林亘)

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もともとは父の影響でサッカーを始めた、普通のサッカー少年だった

__菅野さんは、お父様の影響でサッカーを始められたと伺ったんですが、まずはその辺りからお話聞いてもいいですか?

菅野:そうです!当時Jリーグはなかったんですけど、日本リーグの今のジェフ千葉の前身に当たる古河電工というチームで、父はサッカー選手をやっていたんですよ。もう、素晴らしい選手で、憧れの存在で。自然と私もサッカーを始めたんです。当時、人見知りだった私でしたけど、サッカーを通して仲間と打ち解けられたり、一緒に喜べたり…と友達が増えて、どんどんサッカーが好きになっていったんです。ただ、僕自身プロ選手を目指していたものの全然上手くなくて。中1で紫光クラブ(京都パープルサンガの前身)に入ったんですが、みんなめちゃめちゃ上手くて「自分プロにはなれない、無理だ(笑)」って思ったんですよ(笑)。

__元Jリーガーさんなので、学生時代からスターダムを駆け上がっていたのかと思いきや、そんなこともなくいわゆる"普通"のサッカー少年だったんですね!

菅野:いや、本当にそうです(笑)。レベルの差に驚いたんですよ(笑)。ただ、スクールの最後10分くらいで行うリフティングの練習が楽しくて、それだけのために行ってた感じで(笑)。でも面白いもので、だんだん自分も高いレベルに慣れてきて成長していった矢先、ある日突然「Aチーム入れ」って監督に言ってもらえて。そこからはトントン拍子で府選抜に入ったりして。そこで「何かキッカケがあったり、好きなことをやり続けているだけでも、一気に成長できるんだな」とか「リフティングでも続けていて本当によかったな」とか、中1ながら思ったのを覚えていますね。

__1つでも得意なことや、ある一部分だけでも強みに伸ばしていくことが大切なんだって、菅野さんのお話聞いてて思いました。でも、それであれば全然"普通"じゃないですよ(笑)。中1で府選抜なんて(笑)。

菅野:そこで、そのまま成長しきれなかったんです。というのも中1の終わり頃、右足に骨腫瘍が見つかったんですよね。幸いにも良性だったので切断まではいかなかったんですが、いずれにしても復帰まで1年半近くかかったんです。復帰したのは中3の頭くらいでしたかね。だから一番サッカーが上手くなると言われている中2とか中3を、ほぼプレイできずに終わってしまって。ちょうどその頃、紫光クラブも「パープルサンガ」って名前に変わって強くなっていったタイミングでしたから、みんなが全国大会出てるときに自分は車椅子で帯同した思い出があります。

__それは悔しい……。でも良性で、サッカーを続けられることになって、本当に良かった……。そのときの経験があったからこそ、高校ではより頑張ろうって思えたんじゃないですか?

菅野:仰る通り。ですが、やっぱり中2~中3の伸び盛りの時期にサッカーできなかった、ブランクもある状態からの高校サッカーはスタートだったんです。だからまた紫光クラブに入ったときのように、周りのレベルに圧倒されて、ついていくのが精いっぱいで。高校も一応京都パープルサンガユースだったんですが、高3の最後の大会で初めてレギュラーになれたってくらいですね。Jユースカップで優勝できて、そこでやっと報われたというか。でも、振り返ると中・高の6年ある中でまともにプレイできたのって、中1の半年と高3の半年くらいの合計1年くらいでした(笑)。だからこそ、進学する度にサッカーを諦められない気持ちになっていったんだと思いますが。





自分に甘えた時期もあった。でも最終的に目指したかったプロは、やっぱり諦められなかった

__高3の最後の大会でレギュラーを勝ち取れたってお話は、非常に感慨深いですね…!とはいえ「ケガがなければ…」と悔やんだからこそ、菅野さんの中で燃え尽きられなかったんですね。このままじゃ終われないぞって。

菅野:そうなんです。ただ、ユースからトップチームに上がれなかったので「さすがにプロはもう無理だな」って思ったんです。親にも「サッカー辞めるね。先生になりたいから日体大に行く」って伝えて。やっぱり、ケガをした最中も周りが支えてくれたり、コーチが助けてくれたりしたので、指導する仕事に魅力を感じていたんですよ。それで、高3で実績も出したので推薦で日体大が決まりまして。……でも、運命のいたずらと言いますか、高3の冬、1月くらいのタイミングで流経大の監督から「特待生でサッカー部に来てくれ」って連絡いただけて。めちゃめちゃ迷いました。先生になろうって思ってましたし、もう通用しないと思ってたので。でも、監督がそう声かけてくれたことが嬉しくて、諦めていた夢をもう一度目指そうって思えたと言いますか。やっぱりなんだかんだ燃え尽きてなかった自分がいて、最終的には流経大に進学する選択を取ったんですよ。関東2部上がったばっかりで、勢いもあるし練習も行って雰囲気の良さも感じていましたから。

__まさに「お前はまだサッカーやれ」と神様から言われているような感じですね(笑)。でもやっぱり、骨腫瘍になっても全然成長できなくても、高いレベルに身を置いてサッカーを続けてきたからこそ、チャンスが舞い降りたような気もします。

菅野:それは私自身も感じていて、やっぱり続けていないとラッキーなことって起きないと思うんです。僕も何度も諦めようと思いましたけれど、踏みとどまって続けてきたから声をかけていただけたのかなって。まぁでも、僕も中途半端だったんですよ。大学進学後、1年生で開幕スタメンを勝ち取ったものの、そのあとは大学生あるあるで結構遊んでしまって。中・高はずっとサッカーとリハビリの生活だったので、本当に全く遊んでなかったから、その反動で。そうしたら当然ですが、だんだんメンバーから外れたり……。最終的に4年生のときはCチームで終わりました(笑)。

__え、ちょっと待ってください。遊んじゃったんですか?(笑)。お言葉ですが、よくプロに……。

菅野:そうなんですよ(笑)。でも、Cチームで最後の大会に出たとき、対戦相手は"学生時代の最後の思い出作り"みたいな雰囲気だったんです。「なんで自分はここにいるんだ。なんであんな生活を送ってしまったんだ」とすごく後悔して。最後の大会が悔しくて「やっぱり自分はプロになりたい。いや、絶対なるんだ」って決断したんです。だから大学の監督にも「就職しないでサッカーのプロになります」って伝えたんですよ。当然、めっちゃくちゃ怒られたんですけど(笑)。

__私はバスケが凄く好きな人間なんですけど、菅野さんスラムダンクの三井寿みたいですね(笑)。諦めの悪い男!

菅野:ははは(笑)。自分でも変だなって思うんです。あれだけプロになるって決めて大学入ったのになって。気づくのが遅かったんですよ。だから4年生の最後の大会が終わってからは、1人でグラウンド借りてずっと練習してました。当然プロから声はかからず、トライアウトも受けたんですけど全部ダメで。それでも今回ばかりは本気だったので、働きながらプロを目指すっていう選択を取ったんです。当時J3がなかったので珍しいタイプだったんですけれど、最終的には知り合いづてに『アローズ北陸』ていう富山県のチームを紹介してもらって、そこに入団しました。でも、これも「大学は遊んじゃったけど、やっぱり俺プロになりたいって本気で思ってるから、募集してるチームあったら教えてほしい」って周りに言ったのがよかった。そういう姿勢を見せたからこそ、こんな自分にもまた神様がチャンスをくれたのかなって思いますね。





異色のキャリアがスタート。富山の漁港で学んだ、人のためにするサッカー

__働きながらプロサッカー選手って、それこそデュアルキャリアだと思うんですが、どんな仕事をされてたんですか?

菅野:富山県は日本海がすぐそこで、お魚がよく捕れるんですよ。だから私も漁港というか、市場で働いてました(笑)。なので当時は[6:00~13:00]で働いて、[15:00~20:00]くらいまで練習をして、[21:00~24:00]くらいまでコンビニでバイトしてって毎日でした。今だったら絶対できませんけど、とにかく必死でした。アローズ北陸からは月数万円しかもらってなかったので、生きることとサッカーすることに精一杯でしたね。

__漁港でバイトって面白いですね!なかなか経験できないでしょうし。なにより働きすぎと言いますか、やっぱり苦労されていたんですね。

菅野:でも、あそこでバイトしてよかったと思ってます。というのも、その時までは自分のためだけにサッカーやってきたんですよ。自分が上手くなりたいとか。勝ちたいとか。でも、漁港の社長さんとか従業員のおばちゃんとか、毎週私の試合を観に来て、応援してくれるんですね。で、次の日になると「昨日勝ててよかったね」「来週も頑張ってね」とか声をかけてくれて。仕事でミスをしてもカバーしてくれたり。そこで初めて「この人達をもっと喜ばせるために、サッカー頑張りたいな」「こういう繋がりをすごく大切にしなきゃいけないんだな」って気づけたんです。だから確かに相当ハードワークだったとは思いますが(笑)でも、辞めたいとは思わなかったんですよね。むしろ楽しくって。

__それは感動的なお話ですね…!学生時代も、もちろんチームメイトや家族が応援してくれてたとは思いますけれど、職場の人や知り合ったばかりの方が応援しに来てくれたりして、より人のためにって気持ちが強くなったわけですね。

菅野:自分が大好きなサッカーをやっているだけなのに、なんでこんなに応援してくれるんだろう。なんでこんなに嬉しい気持ちになるんだろうって。でもふと「指導者になったときは、こういう想いを選手たちにも感じてほしいな」って思えたんですよね。だから客観的に見ると確かに遠回りなんですが、あの期間は私のサッカー人生の中でも、かけがえのない時間でした。経験しなければ、きっとずっと、自分のためだけにサッカーをしていて、指導者になったとしても自分よがりの指導をしていたんじゃないかなって思ったりもしますね。

__まぁエリートのように、プロの世界へストレートインすることが全てではないと思うんです。それこそドラフト外からプロ入りして一流になる人もいますし。……とはいえ、まだJリーガーではないんですよね?となるとプロになっても早い段階で指導者という道を視野に入れていたわけですか?

菅野:そうですね!やっぱり私はそこまで上手いプレイヤーではないと自覚していたので、ずっとは続けられないと思っていました。とはいえプロの道は諦められなくて一生懸命やってた形です。で、Jリーガーになる話ですけど、富山県には私が所属していたアローズともう1つ、YKKAPが母体のチームがあって、両チームとも成績がよかったんです。2位、3位とか。それで当時JFLから4位以内はJリーグに上がれるって基準だったので、「この2チームを合体したらJリーグ行けるのでは?」って話になりまして。それで『カターレ富山』って名前に変えて再スタート。調子よく勝っていって、結果3位で着地。自分が3年目のシーズンで、来季からはJ2に昇格が決まったんですよ。もちろん嬉しかったんですけど「来年から俺がプロ?」「「こんな俺がJリーガー?」って夢見心地と言いますか(笑)。大好きだった市場にも行けなくなっちゃって悲しかったですし、あまりにも信じられなかったんですけど、とにもかくにもJリーガーになれることが決まったんです。その時は25歳でした。





デビューわずか1年で引退!?ついに足を踏み入れたJの舞台は、まるで……。

__てっきり、アローズ北陸からステップアップして他のJクラブに入ったのかと思ったんですけれど、合併&昇格でJに入れるチャンスをしっかり掴んだわけですね。諦めずにやってきた努力が報われた瞬間、感動したんじゃないですか?

菅野:一番感動したのは、30節でようやく試合に出られたとき。父がその前の年まで監督をしていた湘南ベルマーレ戦でした。父が監督をしていたら親子対決だったんですけどね(笑)。でも、父がいたベルマーレ戦でデビューできたというのも、ものすごく感慨深くて。それでピッチに入りますってなった瞬間。大きな歓声、天然芝の感触や匂い……それを感じて、1歩入ったくらいで、小学校から大学までの10何年かがフラッシュバックして。走馬灯のように出てきて、本当にJの舞台に立てたんだって。「お前頑張ったな」って言われてるみたいで。これまでの苦労は、この一瞬で報われるんだなって。

__きっと市場の方々も応援してくれてたでしょうし、ようやく恩返しできたって思いもあったんじゃないですか?それもきっと、自分のためだけにサッカーをしていたら味わえなかった感動だとも思いますよ。……ただ菅野さん、デビューして1年で引退されてますよね?これは一体……??

菅野:当時のJ2ってすごかったんですよ。香川真司選手、乾貴士選手、あとはキング・カズさんとか、結構な面々とマッチアップしたんですよね。その経験も忘れられない。「なんで目の前にカズさんがいるんだ?」とか(笑)。不思議な感覚がずっとありました。だから今思えばダメなことなんですが、僕の目標は「デビュー」だったんですよ。代表入りでもなく。だって走馬灯とかって引退試合とかで起こることじゃないですか(笑)。結局それ以上は行けなかったんですよね。そこからシーズン終了まで10試合くらい、デビューからだいたい4か月くらいですかね、それで引退しました。ほんと、あの期間は夢の国にいたような感覚でした(笑)。

__ゴールできても、なお上を目指そうではなく、やはり高校時代から考えていた指導者のほうにベクトルが向いたわけですね。お話を伺っていると、自分以外の人に影響を与えたいという考えをもらってから、なんとなく次の道へ進む準備できていたのでは?というような気がします。

菅野:「指導者になったら…」っていう頭は、節々にありましたね。感動もそうですが、サッカーを通じて子どもたちの成長も、競技の魅力もなにもかもを伝えられる指導者になりたいなって。だからこそ最初から目標は高めに設定したほうがいいなって思ったんです。自分がもっと上を目指していたら変わったかもしれないからこそ、子どもたちにはそういう夢の作り方から教えたいなって思ったのも、そのタイミングでしたね。

__諦めの悪い男が、ついに現役を退く……。その瞬間の話、最後に聞かせていただけますか?

菅野:26歳のときですかね。指導者になりたいって思ったと同時に、指導者としてJリーグの舞台に戻ってきたいとも思ったんです。だから今回ばかりは、ふん切りが早かったんですよ。何チームかオファーいただけたりもしたんですけど、完全に気持ちはシフトしていて。家族にも早い段階で「プロになるって目標を叶えたから、次の指導者って夢を叶えるね」って伝えられました。とはいえ、カズさんや数々の代表選手とサッカーできた瞬間やあの感覚は二度と得られないと思うんですけれど、自分の人生のハイライトであることは間違いないんです。

▶▶▶次回「Jリーグを経験したからこそ、子どもたちに伝えたいこと」に続く






【PROFILE】

菅野将太|NUMBER39:サッカー指導者

父であり元サッカー選手の菅野将晃氏の影響で、自然とサッカーを始める。父への憧れから「自分も将来はプロサッカー選手になる!」と幼少期に夢見ていたものの、中2の頭、右足に骨腫瘍が発覚。幸い良性だったものの、中学時代はもちろんブランクからの復帰で高校サッカーでも3年まで花開かなかった。プロを諦めて指導者の道へ進もうと決めた矢先、流通経済大学の監督からのスカウトにより、再びプロの道を目指す。しかし大学は甘くなく、最終学年のときにはCチームで不完全燃焼。諦めきれずデュアルキャリアとして富山県のアローズ北陸へ入団。その間、漁港でのアルバイトで人と人とのつながりに感動を覚え、人のために頑張ることの素晴らしさに気づく。入団後アローズは、富山県にあるもう1つのチーム(YKKAP)と合体し、現在の『カターレ富山』が誕生。JFLリーグを見事勝ち抜きJ2へ昇格。当時25歳。念願叶ってJリーガーとしてデビューした。しかしプロになることをゴールにしていたため、デビュー戦で完全燃焼。そこから指導者の道へと進むことになる。


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