2025年、100年の歴史が動き出す。京都紫光クラブ。1922年(大正11年)に創設され、現在は関西2部リーグで戦う社会人サッカークラブが今春、大きく舵を切った。トップチームの法人化。資金力の強化と経営基盤の安定化を図り、将来のJリーグ参戦を目指すことになった。社長として白羽の矢が立ったのが赤倉一行さん。ジュニアユース時代には全国制覇を経験。Jクラブのユースを経て京都大学に進学し、サッカー部の主将を務めた。そののちビジネスマンとして奮闘した異色の経歴を持つ男に、古都の古豪の命運が託された。紫光クラブが方針転換した経緯や、クラブの運営や経営方針。自身がクラブ経営を志した理由と日本サッカーの未来についてなど、熱く語ってもらった。
(取材・執筆:池田 翔太郎、編集:伊藤 知裕)
大きな方針転換となった。社会人サッカークラブとして、かつては国体を7度制したこともある紫光クラブ。働きながら部費を納め、休日にピッチに立つ選手たちで成り立っていたクラブだったが、関西リーグ全体のレベルアップの波に飲まれ、都道府県リーグへの降格が危ぶまれていた。そこで行われた事業売却と法人化。大学時代の先輩が紫光クラブに所属していた関係もあり、赤倉さんが生まれ変わるクラブの旗頭となった。
「紫光クラブは関西1部や2部で戦い続けてきましたが、相対的な順位や強さがどんどん落ちてきていました。もうここ数年、関西2部から降格の危機に瀕し続けていました。前のオーナーは20年くらいチームに携わってこられたのですが、『これだけ伝統のあるチームをこのまま何もせず、都道府県リーグに落としてしまうのはいかがなものか』と新たな方向性を模索しておられました。年明け以降には具体的に話が進んで、僕に社長をやって欲しいと打診がありました。僕もそういう道を模索していて、そこに向けた準備もしていました。」
(古豪の再出発を託された赤倉さん)
ずっとJクラブの運営に携わりたかったという赤倉さん。きっかけは主将として全国制覇を果たした、横浜Fマリノスジュニアユース追浜時代までさかのぼる。
「当時から、気になる箇所は多々ありました。当時は学年別に担当の監督やコーチがいて、学年が上がると別の方から指導を受ける仕組みでしたが、それぞれの指導者ごとに教えることが全く違っていました。一貫したものというのが僕には見出せなくて…。どういう風に選手を育ててプロにするのか。いや、あくまで中学生年代で勝つためだけなのか。クラブとしてどういう意思決定がされているのか、僕の中では曖昧に見えた。今、Jクラブの関係者の方々にこういう話をする中で『これはテコ入れしなきゃダメだろう』という思いが、どんどん強くなってきたというのがスタートになるかなと思います。」
育成年代で抱いた違和感に始まり、京大卒業後、大手商社を経て米系金融機関へ転職。サッカークラブ経営者になるための選択を続けてきたという赤倉さんが、大学時代を過ごした京都で夢への第一歩を踏み出す。社長業だけでなく、監督の就任も発表された。現在は選手のスカウティングも、営業回りも全て行っているという。京大時代は「よく戦った練習試合相手の一つ」という印象だったという紫光クラブには、改めてどのような価値を見出しているのか。
「ひとつは圧倒的な伝統です。京都の方々とお話をさせていただいても、『知らないわけがないだろう!』というリアクションが返ってきます。京都という街に根付いたクラブで、新たな挑戦が出来るのは大変光栄なことですし、地域の皆様から応援いただけるようなチームになっていきたいと思っています。それこそ世界的に有名な街に、日本で一番強いサッカークラブがあるとなると、シンボルになれるなと。このクラブでチャレンジができるというのは、本当に価値が大きいなと思っています。」
そしてもうひとつ。このクラブで戦う選手たちにも大きな可能性を見出している。
「京都銀行、京セラ、ワコールと、京都を代表する企業に勤めているプレイヤーが所属しています。私が人生を懸けてチャレンジするに値すると感じた一つが、そこでして。ビジネスとサッカーを本物の意味でトップトップを目指せる環境は、日本のどこを探してもないと思っています。」
高いレベルでの、選手とビジネスマンの“二刀流”。新しい時代のサッカー選手のモデルを築こうというのが、紫光クラブで実現したいことのひとつだ。
「『Jを目指しているのに仕事をしているなんて、そんな甘いもんじゃないよ』と言われると思います。朝に出社して、夜に退社する。こういう働き方の人がJリーガーになれるとは到底思っていないです。ただ、働き方はこれからどんどんフレキシブルになってきますし、AIの台頭で今までの何十倍の速さで仕事が進められる。例えば本田圭佑選手のように、サッカー選手なのか、ビジネスマンなのか、良い意味で何者であるのか分からない感じになっていると思いますけれど、僕はそういう風になるのが当たり前ぐらいのチームにしたい。」
日本のユニコーンのような企業を作り出す商才を持ちながら、サッカーもやる。赤倉さんの言葉を借りれば「ミニチュア本田圭佑みたいな選手」がJリーガーになる未来こそ、紫光クラブの持つポテンシャルだと、語り口に熱が帯びる。
「ビジネスにおいて名刺代わりになるような実績を残すのは、もの凄く難しいと思っています。例えばサッカー選手としての活動がそういうものに繋がるかもしれない。それと、これは嫌がる人がいるかもしれないけど、ビジネスの手段の一つがサッカー選手だと。例えばJ3・栃木シティに所属する田中パウロ淳一選手(※)みたいな方は、サッカー選手でありながら非常に優秀なビジネスマンでもあると感じます。サッカー選手の立場を良い意味で活用したビジネス展開ができると、Jリーガーとビジネスマンは両立できると思いますし、そういう人たちが集結しているチームの方がむしろ強くなる。ひたすら走り込んで強くなるスポーツではないと思っているので。引退した後でも、確実にビジネスで生きていける。こういった事例を当たり前にしていけば、そういう選手がどんどん増えるなと思っています。ビジネスとサッカーの、本当のトップトップでの両立を実現できるクラブとして、どちらもちゃんと取り組んできた紫光クラブだからこそ、さらに上位互換を目指してやっていけると思います。これが全員仕事を辞めちゃって、『とにかくお金を集めてサッカーに集中しています』では、誰のためにもならないと思っているので。」
※:TikTokをはじめとするSNSの総フォロワー数が50万人を超える“インフルエンサー系Jリーガー”。サッカー初心者の彼女「パウちゃん」に扮して、スター選手の超絶技巧を再現するシリーズが大人気。
(監督の就任も決定した)
紫光クラブを語る上で、避けては通れないのがJ1の舞台で戦う京都サンガだ。1993年、Jリーグが産声を上げたことをきっかけに、紫光クラブから分かれる形で京都サンガが発足。96年のJリーグ参戦後は、元日本代表MF松井大輔や元韓国代表MF朴智星など、世界へ羽ばたいた名手を輩出した。地域リーグを舞台に戦い続けた紫光クラブが、同じステージを目指す。そのことについて、赤倉さんはどう考えているのか。
「まだあまりにも離れすぎていて…。本当に同じ土俵に上がるまでは、僕たちが必死で努力していくことが大事です。どうやってシナジーを出していったら良いとか、そういうことが考えられるのは、やはりJリーグに参戦してからになると思います。まず僕たちが一つの成功事例を力強く示すことというのが、一番の地域貢献になるかもしれません。連携を取りながらそれぞれのやり方を示すことが、地域をサッカーで巻き込んでいくことに繋がるかなと思います。」
サッカークラブの経営には、地元企業との結びつきが不可欠となってくる。赤倉さんは「応援という形での資金援助を求める形」はやりたくないという。ではどのような形でスポンサーを獲得していくのか。一つの例として、鍵を握るのはAI。赤倉さんの協力者の一人が、AI技術開発を手掛ける事業に関わっている。そこを足がかりに新たな形のスポンサーシップを模索している。
「僕が就活支援事業をやっていることもあり、大学生との繋がりは広いのですね。それで、学生さんにAIやITの技術をインストールしてしまおうと考えています。僕たちのスポンサーメニューの1つに、そうした学生さんを中小企業の社長さんにアサインします。コミュニケーションを取りながら、必要に応じて現場に行って直接手も動かせます。彼を窓口にして社長をフォローしつつ、そのバックにいるAIのプロがしっかりサポートします、というサービスです。京都には有力な中小企業がたくさんあるのですが、会社にAIを導入していこうとなると、結構大変。そうした企業を引っ張る社長に、優秀な学生をアサインすることで、急速に京都の企業の業務改善が進むと考えています。」
AI導入には興味はあるが、なかなか手が出せない。でもそうしたサービスを利用することで、地元のサッカークラブのスポンサーになれるなら…と考える経営者もいるようだ。そうした企業の背中を押しつつ、クラブのスポンサーを増やしていくつもりだ。そしてもう一つ、京都特有の地域課題の解決にも繋げるつもりだ。
「京大、同志社、立命館…京都には優秀な学生がたくさんいます。でも彼らは就職で京都を出て行ってしまう。そういう話を聞いた中で、京都にいる間に彼らの力を借りる仕組みをつくりたい。その中で彼らが経営者や企業の魅力に触れて、その企業に就職するとか、少なくとも地元企業を知るきっかけになる。そんな風になれば、より支援していただける機会ができる。紫光クラブを中心に地域が一つにまとまれる価値あることだと思っています。」
クラブ、企業、地域がwin-winになるスポンサーシップ。しかし、この仕組みではJ1に参入できるほどの資金規模にはなれない、と断言する。そこで温めている策があると言うが「Jリーグに参入してから、この話は出していきたい」と話すにとどめた。
(京大OBとの食事会)
AIコンサルによるスポンサーと、その次の一手。斬新なクラブ経営の構想を掲げていく赤倉さんを突き動かすのは、世界と日本のクラブ規模の差が起こす危機感だ。親企業がオーナー兼スポンサーとなっているJクラブ経営の構造的な問題を指摘する。
「親会社兼スポンサーから入ってくるお金は、あくまで投資ではなくて、経費。掛かったお金を補填するものにしかならないですよね。クラブのお金で何を目指すのだろうと、目的を見出せていないクラブもすごく多いなと思っていて、投資からパフォーマンスが出せて、さらに投資が大きくなっていく循環というものが、いつまでも生まれない。Jリーグ全チームを合わせた売り上げが、マンチェスター・シティ1チームの売り上げ規模とほとんど一緒という状況を招いてしまっています。親会社があって、ぶら下がる形でクラブがある。そこに日本の競技至上主義みたいな話も絡んできて…。つまり、元々サッカー選手だった方が監督やGMとしてマネジメントに絡んでくると、その人たちの発言が強くなる。経営というものが、そうした方々のもとでひっくり返ってしまう例も見てきました。構造的に直すのは不可能だなと。僕は全く別の形でやっていくべきだなと思いましたし、対等に渡り合える人財を揃えないと、世界的に誇れるクラブにはなれないと考えています。」
日本のクラブが世界と渡り合うため、まず紫光クラブで成功例をつくって優秀な人財がサッカービジネスに入り込む環境を作りたいと、赤倉さんは力を込める。そして、後進を育成する目線を持つ必要があると、進行中のプランを明かす。
「サッカーにおける指導者育成のプラットフォームを作ろうと思っています。高校生や大学生に指導者側の話とか、クラブ経営の話をする機会を設けて、マネジメントする魅力を伝えていくことで『俺もやってみたいな』という野心を持った子を育てていかないといけない。そうして僕が思い描いたところに人が集まってくることがあれば、喜んで道を譲りたい。僕なんかより優秀な人が、どんどん出てくる可能性は高いですから。僕は5年10年というサイクルで、紫光クラブを走り抜けることが今の目標になっています。その上で『ぜひ来てくれ』というクラブがあるのなら、そのクラブでその地域の特性に合わせて活性化させていくことを繰り返すのが、日本のサッカー界のためには良いなと思っています。」
赤倉さんの挑戦は紫光クラブにとどまらない。そんな彼の原動力であり、人生の中心になっているサッカーとは何なのか。改めて考えてもらった。
「僕は負けず嫌いなんですよ。ある意味で選手としての挑戦は負けたわけです。プロになれず、日本を代表する選手になれなかったということは、いちサッカー選手として今でも悔しいですし、W杯を観ていても『なんで自分がそこに立っていないのか』と。じゃあ、自分がサッカーで勝つとはどういう事なのだろうと解釈を広げていけば、それはクラブ経営であったり、日本サッカーを構造的に強くしたりしていくことに貢献したい。ずっとサッカーに接してきたからこそ、絶対に負けたくないという気持ちが強くて、挑戦を続けています。Jがプレミアリーグに惨敗している現状は、僕としては恥ずかしいですし、悔しい。自分のできる事は何なのだろうということの解は、そこにあると思っています。新生紫光クラブのテーマが『文武一道』と『人が持つ可能性を極限まで追求する』なので、例えば、近い将来ゴールドマン・サックス勤務とプロサッカー選手というような二刀流は可能だと信じてるし、それを実現するような人財を紫光クラブから輩出したい。今の常識を、良い方向に変革できるよう、挑戦していきたいです。」
クラブの当面の目標は、3年でのJ3参入と10年でのJ1昇格。しかし、紫光クラブと赤倉さんのゴールはそこではないだろう。真新しいサッカー選手像とクラブ運営。それらを体現する彼らの挑戦が話題を呼ぶ日は、そう遠くない未来に訪れるかもしれない。
(横浜FマリノスJY追浜時代のチームメイト・
小野裕二との交流は続く)
【PROFILE】
赤倉 一行(あかくら・かずゆき) 神奈川県出身。浅野中時代には横浜FマリノスJr.ユース追浜に所属。天野純(現横浜FマリノスMF)や小野裕二(現アルビレックス新潟FW)らとともに全国優勝を経験(当時主将を務める)。川崎フロンターレユースを経て京都大学でサッカーを継続。主将を務めたのち、三菱商事に就職し食肉トレーディング事業に従事。その後、米系金融機関に転職。現在は並行してJクラブ外部講師や就活支援コミュニティを運営。
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